【コメント】
以下
「上州刀工図譜」財団法人 日本美術刀剣保存協会高崎支部 32ページから35ページ
(柳田栄一記)より引用。
「蟻川若狭守政吉
前橋市千代田町三丁目(旧竪町電車通り)に蟻川鉄砲火薬店があり、当主は蟻川博氏である。
その先祖が蟻川若狭守という刀鍛冶であった。「群馬県史」、「吾妻郡史」、「伊参村誌」等にその名はあげられているが、不思議にも刀工の銘鑑には漏れている。
蟻川家に収蔵されている古文書は数十点に及び、完全に保存されている。禁裏金具謹作御用仰付、若狭守任官宣旨、伊賀守金道からの金子借用申込、弟子の取扱について等々。
これらの文書は先般私が案内して、福永酔剣先生がその著、『刀鍛冶の生活』で発表しておられる。
蟻川家はもとの姓を神保と称し、群馬県吾妻郡伊参村大字蟻川の住人で郷士である神保重真の分家で、神保孫市を祖とする。
この孫市の子に吉左衛門がおり、この吉左衛門が後の蟻川波右衛門尉藤原政吉と名乗る刀鍛冶である。
吉右衛門は最初、群馬郡権田村の権田伝左衛門という刀工について学び、享保二十年四十一歳のとき、師匠に認められて権田家の系譜を譲られて、上州権田住権田吉右衛門政重と名乗ったと言われている。
さらに元文五年に郷里伊参村大字蟻川に於いて伊賀守金道(四代目金道)から上州我妻郡(吾妻郡)蟻川波右衛門尉藤原政吉の称を許され、上州在の無名の刀工が、一躍天下の刀工となったわけである。入門する者も多く、資力もあり、村民の信望のあつい人物であったが、宝暦十一年十一月四日(一七六一)病没した(六十七歳)。伊参の屋敷あとには、「源海龍泉居士 蟻川波右衛門尉藤原政吉 寳暦十一年巳十一月四日歿」と刻した立派な墓標が建てられている。
父親の墓も一緒にあり、それには、「観翁宗眞居士 蟻川波右衛門 元禄十六癸未稔十月二十六日 父親神保孫市」とあり、波右衛門九歳のとき死亡したものを後に波右衛門が建立したものと思われる。
さて若狭守は、この波右衛門の子が初代若狭守(政吉二代)となるわけであり、彼は享保九年(一七二四)の生れで、幼少から父について技倆を錬り、三十七歳の時、父の波右衛門が死亡し、政吉二代を襲名したが、四十四歳の明和四年(一七六七)に参内して若狭守の宣旨をうけた。当時の宣旨には「上野住蟻川若狭守藤原政吉」とある。
ところが、前橋の蟻川家の系図は若狭守はこの一代だけで終っているが、伊参村の屋敷あとには次の墓が波右衛門とならんで建っている。これによると比較的若死のようである。
「若岸本州居士 若狭守藤原政吉 安永三年甲午正月四日歿」(一七七四)
従って享保九年の生れであるから享年五十一歳となる。おそらくこれが初代(政吉二代)若狭守の墓と考えられる。さらにその隣に、
「鉄叟鉢□居士 若狭守政吉 文化十四年丁乙十月十五日歿」(一八一七)
これが若狭守二代(政吉三代)と思料される。
さて三代若狭守(政吉四代)であるが、村誌によると、天保年間に出村して沼田土岐侯に抱えられ、その後さらに川越の松平家の抱え鍛冶となったと伝えられている。「政吉四代」と銘を切り、県内に比較的多く所蔵されている。
この三代(政吉四代)は幼名を和歌吉と言ったというが、何故村を出たかは明らかではない。
屋敷うちの墓地を調べると、文政十三年(一八三〇)寅の年に三人の子供を同時に失っている。すなわち、七月三日童女、七月五日童女、七月十日童子と。
村の古老とこの墓守りをしている綿貫氏の言によると、三人の子供が生梅を食べて赤痢になり、同時に死亡したので、三代若狭守は世の無情を感じ、その後十三年ほど村にいたが、出村してしまったと語ってくれたが、うなずかれる。従って出村したのは天保十三、四年頃であろう。
前橋の蟻川家に右京造りの短刀「銘 藤原政吉文化九申十月日(茎の棟に切ってある)刃長六寸六分 反り僅か」が保存されているが、若狭守二代(政吉三代)の晩年の作である。
政吉四代に当る若狭守三代は比較的多く県内に所蔵されている。
特に利根郡の月夜野に住む大沢氏の調査により、案内されて同郡の入須川に神保久氏(神保家十三代目)をたずねる。氏の所蔵する脇指「銘 蟻川若狭守政吉 文政八乙酉八月晦日 刃長一尺六寸九分 反り五分」は政吉四代(若狭守三代)の作で、神保家で特に注文して造らせたものと伝えている。中直刃で、地鉄は小杢目、帽子は少々さびて見極め難いが、小丸に品よく反る作で、出来の良い脇指が当時の拵のまま保存されている。
この四代政吉は、文久三年に亡くなっており、男の子が無かったのか娘なみに貞之丞を養子に迎えたと蟻川家では伝えているが、私の所蔵する脇指には、「蟻川若狭守五代藤原敬業作 行年六十九才 萬延元年庚申八月日」(一八六〇)がある。四代政吉の死ぬ四年ほど前のものであり、四代政吉が、三代政吉が文化十四年に死亡のとき仮に三十歳とすれば、万延元年には六十九歳であり、例の「敬業六十九才」の作と同じ歳になる。このあたり蟻川家の系図その他でも判然としていないが、さらに日時をかけて研究してみたいと思う。
ともあれ、辺地上州在に、「守」を名乗る刀工があり、古文書でも判然としているとおり、代々伊賀守金道の経済的な援助者であったことから推察するに、相当な資力をもっていたことも考えられる。
現在の吾妻の奥の伊参村大字蟻川には若狭守の屋敷あと、古井戸、長屋門が杉の木立に囲まれて残っており、その広さは概ね二千坪に及んでいる。
墓地は前記の墓標が門人衆によって建てられたもの、それぞれの代の若狭守が建てたものが屋敷の西にある。
(柳田栄一記)」
以上
「上州刀工図譜」財団法人 日本美術刀剣保存協会高崎支部 32ページから35ページ
(柳田栄一記)より引用。
※「上州刀工図譜」は付随致しません。 ※This book is not included.
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